第1章「悪魔なんて最低だ」



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【第1章―3】

 □■□

 (―――立て、立ち上がれ、動け!)

 呼吸さえ、胸が痛んでろくろく出来ない中、唯一出来たことは思考で、そ
れは自身を叱咤した。
 油断をしていたつもりはない。この地の過酷さを侮っていたわけでもない。
己の腕を過信していたわけでもない。しかしこれほど早い襲撃を想像しては
いなかった。
 しかもこれ程強力な。
 目蓋を、押し上げる。
 すぐ側に大地と、下草が見える。天国よりも若葉の色は暗く、葉は鋭くト
ゲのあるものばかり。ろくに受け身も取れない状態で落ちるにしては、条件
が悪過ぎた。
 草が、揺れる音。踏みしめられる音。ゆっくりとであるが、だんだんと近
づいてくる音。
 さらに自身を叱り、両腕に力を込め、上体を持ち上げる。腕も、背骨も、
意志とは裏腹に痛みに恐れをなし、なかなか動こうとしない。自分の身体が
上手く律せないことがさらに焦りを呼ぶ。
 楽になりたくて呼吸をするが、吸い込む空気には地獄の魔力が込められて
いる。大した量ではなく、慣れれば影響なぞないのだろうが、魔力は天使の
光力を奪う。体内に入れれば入れただけ肺を焼かれるような痛みを感じる。
 (剣は)
 ようやく持ちあがった上体で視線を巡らせば、大岩のすぐ近くに突き立っ
た白剣が見えた。遠い。
 外したにしては、大岩から離れて過ぎている。
 つまり、白剣は弾かれた。目前に迫る一人の悪魔に。条件は悪かったにし
ろ、相手も反撃を読むにしては条件が悪かったはずだ。
 先程からの攻撃で十分にわかっていたことではあったが、この悪魔は、強
い。間違いなく、上位の悪魔。
 (―――立て、)
 もう一度、強く命じる。
 歯を食いしばり、脚に力を込める。
 一歩、一歩と近づく悪魔の肩には、大鎌。剣のない状態で、どう対抗する。
立つことさえままならない状態で、どうあれを回避する。考えつかないのな
ら、動くしかない。動いて、この場から離れるしかない。
 翼を、羽ばたかせ、無理やり身体を浮かせようとする。しかしそれさえ上
手くいかず、ようやく片膝をつくだけに留まる。
 こんな小さな門≠ノ、門番がいるとは予想していなかった。
 目的地にすら辿り着けず、こんな所で、こんな無様な醜態をさらし、これ
程歯がゆい想いをするとは、考えていなかった。
 (ハリムの覚悟を踏みにじっておいて、この様か)
 自嘲し、視線を上げる。
 目前に、悪魔が立った。
 赤い瞳が、何の感情も灯さずにこちらを見下ろしている。
 息を、詰める。
 大鎌の暗い色の刃が、天国からの光を掻き集め、鋭利な孤を描いている。
 ただ、肩に担がれているだけのそれが、次の瞬間にどんな動きをするのか、
それを見逃すわけにはいかない。息を詰め、全身の神経を研ぎ澄まし、その
一瞬に間違えずに身体が動くように集中する。
 青い瞳は決してその凶器からそらさず、耳も、意識も、目前の悪魔の呼び
覚まされるはずの殺意をじっと見つめた。
 しかし、その一瞬は、なかなか訪れなかった。
 わずかな疑問が生じたが、集中が切れるより先に悪魔が動いた。
 大鎌を持つのとは逆の、左手を持ち上げ、それを彼は自身の頭に当てた。

 「悪ぃ、間違えた!」

 そうして、ほがらかに笑んで、そう豪快に言ってみたせたのだった。

 「…………は?」
 思わず、そんな声が出てしまう。しまった、会話としては礼儀を欠いた最
悪の返答だ。いや、仕方ない、予想外過ぎる。そもそもが何を間違えたと言
うのだろうか。
 「いや、地獄って、白い色少ないんだよ。雪くらいなもんで」
 こちらの反応があんまりだったせいなのか、それとも気にしていないのか、
悪魔は勝手に説明を始める。
 「だから、雪と間違えた!」
 悪魔は終始笑顔だ。
 ほがらか過ぎるほど。
 その声も「悪い」や「間違えた」を言うにしては、明る過ぎ、弾んでいる。
 まるで久方ぶりの友人にでも出会ったかのような対応だ。
 予想外過ぎる態度に、思考が追い付かない。それでも頭の片隅に縮んで存
在していた冷静な理性が、言葉の不自然さを警告する。
 「……い、いや、雪にあれだけの攻撃はしないだろう」
 警告に忠実に、それでも半ば茫然としながら、天使はそうつっこんだ。
 「あー……俺、寒ぃの嫌いなんだよ」
 若干の間を置いて、返る答え。しかも最初の「あー」に関しては、確実に
何事か思案するための声。表情も、笑顔が消えて、歯切れ悪そうに視線もそ
らされる。
 反応から察するに、その不自然に気付かれないとでも思っていたのだろう
か。それとも数分前の出来事のことを、すっかり忘れていたとでも言うのだ
ろうか。そんなはずがない。そんなはずがないのだが、そうとしか考えられ
ないような、この態度。
 こんな時にどう対応したらいいのかわからず思案したが、すぐに止めた。
 相手は、悪魔で、ここは、地獄だ。何を普通に会話をしようとしているの
だと、自分に呆れ、叱責する。相手の思惑も読めない状態で、最も適切な会
話を選ぶ。
 「君は、この地の門番≠セろう?」
 「はあ? 俺がこんなみみっちいトコの面倒なんざ見るわけねえだろ。こ
こは絶好のサボり……いや、なんでもねー。とにかく、俺はただの通りすが
りだ、通りすがり!」
 不愉快そうに、弁明される。
 通りがかりにあれだけの応戦をされてはたまったものでないのだが、この
際、本当に通りすがりでも、門番であろうとも、どちらでも良かった。
 「君は、悪魔だろう?」
 「ちょっと待て、他になんだってぇんだよ」
 「私は、天使だ」
 「そりゃ見りゃわかるっつーの。白い翼、金髪、青い目! どれも地獄に
はない色だよ!」
 「ここは、地獄だ」
 「……」
 悪魔が、赤い瞳を細めて、黙った。
 ようやくこちらの意図が伝わったようで、その瞳を真っすぐ見返す。
 「それで十分だろう」
 もうどこにも、悪魔の表情には、笑みの影すらなく、赤い瞳は最初の冷た
さを取り戻し、冷え切った体温が、この場を支配しているようだった。
 「ああ、まあ、そーだな」
 意志のはっきりしない、力ない声が、どうでも良いように、そう呟いた瞬
間、肩に担がれていた大鎌の刃が、大地に落ちた。
 咄嗟に天使は転がるように横へ移動し、すぐに腕と膝に力をこめ、立ち上
がる。
 「はっ! なんだ、元気じゃねぇか」
 数瞬前まで天使がいた大地に突き刺さった大鎌を、軽々持ちあげ、悪魔は
高らかに笑った。
 その笑みは先程までとは変わり、殺意と敵意を示し、それらを心底楽しん
でいる。その赤い瞳もまた、隠そうとしない程の戦意を宿し、喜ばしげに地
獄の大地の中、魔力を宿して淡く輝いている。
 それは間違いなく脅威なはずなのに、天使はひどく安堵した。
 先程までの得体の知れない感覚はすっかり消え去り、地獄に、悪魔に相応
しい姿に、ようやく納得する。ようやく、ここが自身が想像し、予想し、降
り立った地だと、実感が湧いた。
 青い瞳もまた、この場に相応しい色を宿し、悪魔を見据える。
 「なんってーか、」
 悪魔は、ぼやく。口元から鋭い牙を覗かせた笑みの中から、不釣り合いな
程不機嫌な声が出る。
 「てめえ、面倒くせぇな。ちったぁ、いつもと違う面白いもん手に入った
と思ったんだが、もうどうでもいい」


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