序章



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【序章―3】

 ハリムは飛んだ。
 一度だけ強く金翼を羽ばたかせ、つま先が強く地を蹴った。
 同じく金の眼光は鋭く行き先を見据え、銀の刀身はその軌道に従った。
 考える間は与えない。
 刹那の間に距離を詰める。
 何かを考え、思慮し、対抗する時は与えない。
 与えてはいけないのは時間だ。相手に決断を許さない。
 許さないのなら、速度を求めるしかない。
 何も与えられず、何も置けず、何も考えられず、何も思慮できず、何も対
抗出来ぬ時間の中で、反撃出来ない懐に飛び込み、剣先を喉元にあてる。
 そのための、行動と、速さ。
 ハリムに躊躇いはなかった。

 ギィイイインッ

 鳴るはずのない、鋼の音が、高く、天を突いた。
 金の瞳が、驚きに丸くなる。
 すぐ、間近まで迫った灰色のマントがひるがえり、金の髪が緩やかになび
く。高く掲げられた右腕の先には、白剣。
 白色の石で造り上げられた長身の両刃剣。それが光の中、銀の光を弾き、
宙へ浮かせていた。
 油断、していたはずがない。
 それでも、己が描いた結末以外のものが、訪れることは、意外であり、ハ
リムの思考は、そこで止まった。
 視界の中で白剣がすばやく向きを変える。
 次いで、衝撃が、腹の辺りに湧き上がる。鈍い音がした。
 すぐ、側で、馴染んだ声が、問う。
 「迷うと、思ったか、ハリム。私が」
 肯定は、返そうとしても、喉の奥は空気を吐き出すことさえかすかにしか
出来ず、言葉は漏れない。
 血液が、筋肉が、力を手放して行く。
 痙攣し、閉じようとする目蓋を懸命に耐えたが、崩れて行く身体は上官の
顔を見上げることも叶わない。
 それでも、わかった。理解した。
 時間を与えない努力など、とうに手遅れ。遅かったのだ、と。
 上官の目論見は見破れたが、所詮、それだけ。
 彼が悩んでいたのは、考えていたのは、もっとずっと、前からだったのだ。
 そうして、その長い時の中で、すでに迷いは手放して、決断はすでに、そ
の身に宿して、そうしてこの地へ訪れた。
 だから、もはや、落ちた剣先も、閉じる瞳も、音を生めない喉も、頼られ
なかったこの騎士服も、何もかもが、遅すぎた。
 だから、
 「さよなら、だ」
 落ち着いた、年に似つかわしくない、それでもいつものおだやかなあの声
に、何一つ、返せない、まま、意識を落とした。



 副官の身体から完全に力が抜けたことを感じてから、フェルフは剣の柄を
引いた。
 みぞおちを強く叩いたその柄を下げ、天馬の鞍に結わえたままの鞘に剣先
を収める。代わりにわずかな荷を解き、それを腰に吊るす。両手で鎧の副官
を担ぎ、天馬の背に乗せる。
 大人しくしていた天馬がその重みに蹄を鳴らしてかすかな抗議を示す。
 首を数度叩いてやれば観念したように頭を垂れた。
 その様子にフェルフは目を細める。優しげなそれを天馬はしっかりと見つ
め返した。
 フェルフが歩き始めると、天馬もそれに従った。
 少し離れた所で茶毛の天馬が木に繋がれているのを見つける。馬具を見れ
ばハリムの天馬だと知れ、手綱を放してやる。主人の姿を見ても落ち着いた
様子で、どうやらフェルフのことを覚えているようだ。
 そこで、フェルフは自分の天馬の鞍から最後の荷物を―――白剣を収めた
鞘を抜く。腰には下げず、手に持つ。
 目的地は、すぐそこ。
 フェルフは自身の天馬からも手綱を解く。解いた手綱でハリムの鎧と鞍を
結わえ固定し、天馬の額をなでてやった。言葉はないが、長年の愛馬だ。意
図は十分に伝わる。
 背を向けて、歩き始めようとする。
 と、背に少し強めの衝撃を感じ、振り返る。
 聡い天馬は主人の服を噛むようなことはせず、ただいささか乱暴にその鼻
先をぶつけて来た。
 ただ、それだけ。
 最後だと、その瞳を覗きこんでやれば、向こうも全てを察し、かつ主人を
困らせるつもりもなかったのだろう。少しいななき、方向を変える。木々が
少し開けた場所まで駆けて行き、翼を広げた。
 天高く飛ぶ音が森の木々を揺らし、茶毛の天馬も後を追う。
 飛び立つ姿だけを見送り、フェルフは再び歩き始める。

 一歩一歩、惜しむように、愛しむように、歩むことは許されない。
 やわらかな大地、あたたかな下草、樹木の影の小さな花、陽をすかして落
ちる若葉の影。
 そのどれにも、もはや自分は相応しくない。
 そのどれにも、背を向け、過ぎ去って行く天使などに、それらの慈悲は似
つかわしくない。一片だとて、分け与えられてはいけない。
 似つかわしく、相応しく、与えられるものは、すぐに眼前に現れる。
 木が、避けていた。
 その四角い空間を、高い木は避け、強い日の光が当てられているにも関わ
らず、なお、その闇は深く、暗かった。
 地面が、区切れている。正方形に、下草たちの色を滲ませ、異界の黒が音
も立てずに揺らめいている。
 そこは門=B
 小さな柵が周囲に建てられている異質なそこ。
 低い柵に手をかけ、越える。
 小さな小屋ならばすっぽりと覆ってしまうだろう。そのくらいの広さの黒
が、陽の光を蝕んでのさばっている。
 それは穴だ。四角い穴。
 ここではない場所へ通じる、穴。
 神々に祝福された天使と天国。
 その下に広がる世界は、地獄。
 そこに住まうは悪鬼と腐敗、邪悪と悪魔。
 それらの知識は天使にあった。フェルフの中に、それらの世界は確かに存
在していた。それでも、知識だけ、思考だけでその歩みは止まらない。止ま
れない。
 それでも、怯むことなく歩んだ足も、淵までの最後の一歩を、差し出せず
に止まった。
 何も、見えない。ただ黒一色ではなく、様々な色を暗くしていき、黒にし、
それらを常に混ぜ合わせているかのような、そんな黒。蠢いている。それは
生き物の鼓動のようにも見え、深い泉の底のようにも見えた。暗い青、赤が、
時折黒から覗き、まるで星空のようにも見える。ただしそのどれにも、好意
的な感情は湧いて来ない。
 風を、呑みこんでいるように見え、その実、吹き上げて来た風がわずかに
金の髪をなびかせ、浮かせる。両耳にかけられた黄金色のだ円のピアスが、
髪の合間から闇を映す。
 馴染みのない匂いを嗅ぐ。匂いに温度などないはずだが、それは吸い込ん
だ身の内から温度を蝕む。
 少し、息を吐く。手にした長剣を、改めて腕に抱え直す。
 フェルフは、その穴に、背を向け、屈んだ。
 瞳から消えた闇は、背に存在を主張する。
 顔を、上げる。
 木の葉に邪魔をされず、青い空が見えた。
 青く、澄んだ空。雲は一つも見えず、ただ真っ青な色を、深い青色の瞳は
焼きつけ、刻みつける。
 その青を見据えながら、背を、傾けて行く。後ろへ。
 高い高い青を、瞳の青は映しはするが、完全にその色になれるわけでもな
く、ゆっくりと、フェルフは目蓋を下ろしていく。
 傾けた背に、重心が移る。
 空の青が闇色に染まることはなく、その前に目蓋の外に消え、白い翼が、
闇に触れる。
 何の感触も、温度も感じられない。
 それでも、もう戻れないことを、明確にわからせるに足る何かが、その中
にはあり、すぐに全身が、その中へと堕ちた。



                         序章 ― 了
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