序章



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【序章―2】

 「では、」

 騎士は、フェルフは、一歩進んだ。
 傍らの天馬は心得たように、主人から離れる。
 騎士の眼差しは真髄に、その態度は厳粛に、その表情は冷静を象っている。
無慈悲な冷たさではなく、一途の覚悟を身にまとう立ち姿だった。
 フェルフは灰色のマントの下から、一つの石を取りだす。手の平から少し
余る大きさの、ひし形に近い形をした赤い石。
 まだ何も、身構えていない。
 剣は鞘の中、それも天馬の鞍に結わえられたまま、手の届く距離ではない。
 それでも、
 「押し通ります。覚悟を」
 短く、告げた瞬間、その覇気だけで警備兵たちは一歩後退し、犬たちは弾
かれたように騎士に向かった。
 唸り声と吠え声を上げながら、ほぼ同時に二頭が飛びかかる。
 フェルフは狂い鳴く犬を前にも焦りを見せず、半歩引いて一頭の爪を避け、
一頭の牙を避け、すれ違うように進んで石をその背に触れさせた。
 石は赤い光を薄く宿して、すぐ消える。途端、その光に触れた犬は体勢を
崩し、そのまま地面に横たわる。
 残る一頭が警戒し、立ち止まったが、騎士の白翼が羽ばたいた。
 強く空気を打ち、周囲の木々から葉が舞い、草が散った。
 一声の泣き声も漏らさず、漏らせず、赤い光に触れた犬が大地に伏せる。
 ようやくそこで、警備兵が動き始めていた。
 若手が騎士の背中に迫っていた。
 振り向くこともせず、フェルフはすばやく右腕を動かす。振りあげられた
剣が下ろされることはなく、その剣を握りしめた警備兵の右腕を、それは正
確に受け止めていた。
 空いた警備兵の腹に、振り向き際に石を当てる。
 倒れる様を見届けることもなく、最後に年配の警備兵へ向かう。
 相手は、すでに戦意を消失していた。
 いや、彼だけは最初から、戦う意志なぞなかったかのように、無防備だっ
た。
 その姿を青い瞳は焼きつけながら、同じように、赤い石の光が、最後の戦
力の意識を奪う。
 先程の若手よりも、ずっと経験を積んでいた警備兵だろう。戦う前から、
勝敗を察していたのだろう。それでも「何故」と、問いかけてくる瞳がそら
せず、閉じて、崩れるその身体を、騎士が支えた。
 数秒の、出来事だった。
 静寂が落ちた大地に、そっと、警備兵の身体を下ろす。
 天馬は主人に近づき、その鼻先をすり寄せた。
 と、その時、不自然な音が流れる。
 乾いた、分厚い革の手袋を合わせた、拍手の音。
 フェルフは警備兵を下ろした体勢から立ち上がり、その音の方向に視線を
向ける。
 木々の合間から、一人の男が現れた。
 茶髪と、同色の髭を蓄え、背には金翼。警備兵などとは比べ物にならない
装飾が施された衣服、鎧、腰には剣を携えている。
 フェルフはその男の姿を認め、わずかに瞳を細めた。
 「さすがは、フェルフ様。お見事なお手並み、感服致します」
 「ハリム……」
 現れた男は丁寧な仕草で礼を取って見せた。
 フェルフはわずかに嫌そうな声を出した。その中には、この場に不釣り合
いな礼に対する咎めの色と、何故ここにいるのかという疑問の色が込められ
ていた。
 その色を正確にくみ取り、現れた騎士は姿勢を正す。両手を背の後ろで組
んで、疑問に答える。
 「ここ最近、貴方様の様子がどうにも落ち着かないというか……何事か考
えていらっしゃるようでしたので。顔には出ていませんでしたがね、わかり
ますよ、何年副官を務めさせて頂いていると? 先日、城の法官にここの警
備状態を尋ねていらっしゃったでしょう。誰か裁判でも受けるのか≠ニ、
心配した法官が私に訊いて来ましたよ。それにくわえて、この休日」
 ハリムと呼ばれた騎士は、組んでいた腕を解く。
 「何も予定がない休日≠ネんて、貴方様に不釣り合いなもの取るからい
けないんですよ。怪しむのも悪いかと思いましたが……昨日、お墓参りもさ
ていたようですね。わざわざ任務終わりの夕刻に。今日が非番であるにも関
わらず。もう、これは今日≠オかないと思いまして、こうして馳せ参じさ
せて頂いた次第です」
 フェルフに一声も許すことなく、そこまで言い終え、「何か弁明は?」と、
ようやくそこで軽い口調で尋ねる。金色の瞳が、まるでいたずらが成功した
子供のような色をして年下の上官を見やる。
 無言だったフェルフの一番最初の答えは、小さなため息。観念した、とい
うよりは、副官の場違いな態度に対する、呆れだ。
 「有能な部下を持て、身に余る光栄だ。後事は憂わずに済みそうだ」
 「ご冗談を。まだ、後事≠ネどと言われますか」
 躊躇なく、ハリムは剣を抜いた。
 森の陰の中から、陽の光を一直線に拾い、銀の光が姿を見せる。
 「……先程の、聖石。いくら痛みが後に残らないためとは言え、犬にまで
使用したのは甘すぎます。ご存じだとは思いますが、私も貴方様と同じ訓練
を受けていますので、その技は効き難いですよ」
 先程までの軽い口調を正し、ハリムは表情も引き締めた。
 「お優しいフェルフ様。何故貴方様がこの地に用があるのか。この先
に行こうとしているのか、そんな疑問は後でいくらでもぶつけさせて頂きま
す。―――いいえ、本当は答えなど必要はないのです。私はただ、貴方様の
副官。この先≠ヘ貴方様の世界ではない。貴方様に相応しくない。貴方様
が望むものは何一つだってありはしない」
 一つ一つの言葉は重みを持ち、フェルフは一言一言の意味を、重く受け止
める。白い翼が、木漏れ日の中で、より白く、重く、その背に乗る。
 「そう、判断するからこそ、全力で、お止め致します」
 もう、言葉の語らいは終わった。
 そうはっきりとわかる程、ハリムの身には闘気が宿る。
 ハリムは上官の騎士をよく理解していた。
 先程の、警備兵との戦闘を見なくとも、よく理解していた。
 彼は甘い。優しい。
 それも敵ではない相手、自国の者、顔を知る者ならばなおのこと。
 それを逆手に取ることは卑怯なことだと重々承知していたのだが、そうで
もしなければ、止められる気がしなかった。あらゆる可能性を考慮した上で、
この方法が最善。躊躇いはなかった。

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