序章



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【序章―1】

 一騎の天馬が空を駆った。

 青く晴れた空の中、白い大翼が羽ばたき、同じく白い蹄が空を蹴る。
 乗り手は一人。その背にも真っ白な翼があったが、今はたたまれ、天馬の
背に寄り添った身体と共に風の抵抗を少なくしている。
 朝と、呼べるほどの時間ではなく、昼と呼ぶには、まだ静か。
 雲は遠くに、風に飛ばされることもなく白く伸び、青を透かしてわずかに
ある。天候は実に良好だった。
 下は砂漠。赤い砂の砂漠だった。赤い石と砂が、天馬と乗り手の影を招い
ては別れていく。その間隔は早い。
 天馬はまるで戦場の伝騎のような速さだった。焦るわけではなく、たんた
んと、ただ速い。静かに、確実に、距離を確かに後方へと流していく。
 と、赤い砂漠に赤以外のものが見え始めた。
 生い茂った緑。
 遠くから見ればわずかな緑だ。それでも距離が縮まれば、そこが小さくも
森と呼べるほど木々が密集した地帯だとわかる。
 天馬の鼻先はその緑へと向けられた。
 天馬の背から、乗り手がその色を確かめる。
 若い緑が、陽の光を歓迎して、さらに青々と天を向いている。
 森の中心部はその色が濃く、よく見えない。いや、中心の一角には、不自
然な空間があった。高い樹木が目立つ中心の中、そこは高い木がない。周囲
の葉に遮られているため、その下の様子を見ることは出来ないが、間違いは
ない。ここが、目的地。

 世界の全てに祝福されている、そんな色彩の森だった。
 それでもこの国の者たちは、ここを不運な土地と呼ぶ。
 緑があれど、人里などなく、地方の管理の者たちがいるだけ。その駐屯地
が近くにあるだけの、豊かではない土地。
 一般の者など、近づくことさえなく生涯を終えるだろう。
 それだけ、意味の薄い、地。
 意味など持たせなくて良い、土地。
 少なくとも、平和な内は。

 それでも彼は、ここが豊かなことを知っていた。
 水があり、草が生え、木々が茂り、鳥たちが立ち寄り、獣が息をする。
 それだけのこと。それでも、それだけのことが出来ない地もある。それを
このあまりに恵まれた国の者たちは、忘れてしまっているだけのこと。
 木は枯れ、持ちこんだ種も枯れ果て、獣はやつれ、鳥は逃げ去り、作物は
実らない。ここではない、場所。もう一つある、世界。そんな場所があるこ
とも、彼は知っていた。
 青い、深い青い色の瞳が、近づく森を見据える。
 伏せていた背をわずかに上げる。
 金の髪が、陽を弾いて白翼の中に揺らめいた。
 若い、外套をまとった、軽装の青年だった。
 少年の面影をわずかに残し、しかしその表情は歴戦の戦士の鋭さがある。
 彼は、外套の下で石を掴む。二つ。
 天馬が高度を落とす。速さはそのままに、大地がどんどん近くなる。
 すぐに、視認出来る場所に、光るものを見つける。
 木々の幹に、紫に光るひし形の水晶が浮いている。
 それは細い光の線放っており、また別の場所にある水晶と光を結んでいる。
 彼はその小さな光に向け、握った石を投げた。
 小さな石だ。目標となる水晶もまた拳ほどの大きさだ。
 しかしそれは正確にぶつかり、小さく高い音を立てた。とたん、水晶から
輝きが失せる。細い光もまた、ちぎれた糸のように空気の中に溶けてしまう。
 もう一つ。これもまた石が当たった途端、光が消える。
 線が消えた空間に、天馬は降り立った。
 木々は古い葉を落とし、大地はやわらかくその蹄を受け止めた。
 大きく翼を数度羽ばたかせ、天馬は長旅を終えた背にそれをたたむ。
 乗り手が褒めるようにその首を数度叩いてやれば、誇らしげにたてがみを
振るわせて応える。
 少しばかり、歩を進める。
 空中から見えた、不自然な空間。
 そこへ向かうように進めば、鋭い吠え声が聞こえた。警戒を告げる、太い
犬の声に、周囲から鳥たちが飛び立った。
 馬の背から降り、青年はさらに歩を進める。
 吠え声と、鎧の音が近づいて来た。
 慌てた様子の警備兵が二人、興奮する犬を手で制しながら、こちらを認め
た。警備服の合間から、小さな翼が見える。
 「こっ、これは……!」
 年配の警備兵が驚いた顔をして、吠える犬をなだめながら、頭を下げた。
 「え、まさか、フェルフ殿!?」
 年若いもう一人の警備兵が、年配の様子を見て慌てて頭を下げた。
 「頭を上げて下さい。突然の来訪、失礼します」
 青年は軽く会釈し、そう告げる。
 主人の様子に犬も吠え止み、年配の警備兵はそれでも遠慮ぎみに頭を上げ
た。
 「し、しかし、なんだって本国の聖騎士様がこんなとこに?」
 「この先の門≠ノ行きたい。通して頂けないだろうか」
 青年は毅然とした態度のまま、そう告げた。
 その内容が、この土地に―――天国に生きる者にとって、どれ程重い禁断
の発言であったとしても、一切の躊躇も見せず。
 数秒、沈黙が落ちた。
 警備兵二人は、あまりの予想外の言葉に、しばし固まってしまった。
 なんとか年配の方が、動揺を抑えながら申し訳なさそうに答える。
 「それは、いくら聖騎士様の言い分でも、許可証がなければ通せないって
もんです。西へちょっと言った駐屯地に、役所があります。フェルフ殿なら
ちゃんと理由を説明してくれれば、役所も許可証を発行してくれるでしょう。
そしたら役人さんたち同伴で、お通し出来るってもんです」
 彼の答えは、無難なものだった。
 許可証ならば、本国から持ってくればいいだろうことに、気付かないフリ
をして。触れてはいけないものに、必死に触れないように。
 それでも、それに頷いて帰ることは、彼には―――フェルフには、出来な
いことだった。
 聖騎士と呼ぶには、屈強でもなんでもない、まだ若いその天使は、わずか
に青い瞳を細めた。まるでそれは、警告。
 「―――見逃して頂く、と言うことは?」
 確認。
 触れたくはない。それでも、もう触れなくていい距離には、警備兵たちは
いなかった。それを聞いては、もう知らないフリなど、気付かないフリなど、
出来るわけがない。
 年若い警備兵が、緊張し、表情をこわばらせる。
 主人たちの様子に犬たちも再び警戒を濃くし、姿勢を低くして呻く。
 年配の警備兵は、喉を鳴らして唾を呑み、覚悟を決める。
 「そ、それは、出来ませんって。絶対出来ません。わしらは、侵入者はた
とえ誰であろうとも、武力を使っていいって許可があるんです。たとえ相手
が聖騎士様であろうと、フェルフ殿であろうとも……」

 青年は、その答えに、わずかに俯いた。
 小さく、確認するように、自身に言い聞かせるように、頷く。

 「―――そうか」



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